大塚康生プロフィール

私はアニメーターの仕事で多少人に知られるようになりましたが、並行して(というよりも、こちらの方が先に)軍用車輌、特に米軍のジープに強い関心を持ち続け、ジープに関する著作を多数発表しているものですから、映画のタイトルの名前と、模型誌に出ている名前を同姓同名と思っていた、という話をよくききます。何故アニメなのか、何故ジープなのかについては私の略歴を見て頂ければおわかり願えると思って、あえて両者を並べた年表を叶精二氏(高畑・宮崎作品研究所/代表)に作成して頂きました。振り返ってみるとアニメーションも仕事だか趣味だか判別しないほど面白かったし、ジープは趣味そのものです。まるで遊んでばかりいた人生のようで、申しわけありません。



1931
(昭和6)
7月11日、島根県岩見地方津和野町から12キロ山奥に入った鹿足郡木部村山下に生まれる。姉と弟の3人兄弟の長男。絵心はおそらく母方の祖父が山口県阿武郡田万川町江崎の真宗の末寺の僧侶で絵が非常に上手かったことから、彼の影響を受けたのかもしれない。祖父の描いた掛け軸や画帳が多数残されている。主題は竜虎、花鳥、山水画、仏像、西遊記絵伝、襖絵など。掛け軸の観音像を近づいて見たら線1本まで細密な観音経で出来ているものもあって、子供心に強い印象を感じた。この祖父は寺を捨てて若い娘と出奔、行方不明になり、寺を追われた祖母は夏ミカンの行商をして母を育てた。彼女は終世「康生がおじいちゃんに似なければええがねぇ…」と絵描きになること、浮気男になることを心配しつづけた。後年「アニメーター」になると聞いて安心した!? 父は根っからの農民。たいていの生活用具を自製する器用な人だった。

1939
(昭和14)
小学校2年生の時、父が「ここでは子供の教育が出来ない」といいだして、山口県山口市に転居。山口線の蒸気機関車を見て一目惚れ、夢中になって描きはじめた。小中学校では学校はさぼるわ、無賃乗車で山口県、福岡県、島根県を旅するわで、ひたすらに各種の蒸気機関車をスケッチした。丹念に描いたので機関車の構造や作動原理、パーツ名などをすべて憶えてしまった。今でいう不登校児だったが、学校が嫌いだったのでも、虐められたからでもなかった。年中家をあけるので、学校でももてあましていたらしい。戻ってくると先生からよく殴られたが気にしなかった。

1946〜1949
(昭和21)
戦時中開校された県立山口工業(5年制旧制中学)土木科に入学。学徒動員で下関市にいた時、終戦を迎える。父の期待に反して、あと1年行けば高卒の資格がとれたのに、中卒で社会に飛び出す。終戦直後大量に入って来た米軍のジープやトラックを見て驚き、機関車をやめて軍用車輌のスケッチに転向。これも当るを幸いスケッチした。ジープの構造を知るために米軍のゴミ捨て場でマニュアルなどを漁って集め、副産物として英語をおぼえ、アメリカとニュージランドに友人が出来た。今も家族ぐるみでつきあっている。最初の就職は山口県庁総務部統計課。出張で2度東京に来た。山口新聞に時事諷刺漫画を投稿、採用されて一時連載される。

1951〜1955
(昭和26)
政治漫画家を目指して上京を決意。厚生省の採用試験に合格。配属先は関東甲信越地区麻薬取締官事務所。いわゆる麻薬Gメンの仕事だったが、ひまをみてはデッサン塾に通ってみたり、図書館で漫画を模写したり、自己流で風景画を描いた。ソ連のアニメ「せむしの仔馬(48年) 」や、フランスの長編アニメ「やぶにらみの暴君(52年)」に感動し、アニメーションに興味を持ちはじめる。不規則な生活が祟って結核になり、2年間療養生活。本だけはたっぷり読めるいい機会だった。

1956
(昭和31)
6月27日付「東京タイムズ」芸能欄で「漫画映画『白蛇伝』東映で制作決定」の記事を見て、東映動画の発足母体となる日本動画社を訪れ、テストを受ける。応対したのは、山本早苗、薮下泰次、大工原章、森康二という当時の日本動画界を代表する人達だった。結果は合格。通いながら動画を練習。8月1日、東映動画第1期生として臨時採用された。大工原班。主に立ち回りのシーンの動画を担当。1〜3期生は「こねこのらくがき(57年)」など数本の短編で技術を磨いた。

1957
(昭和32)
12月10日、日本初のカラー長編動画「白蛇伝」作画イン。第二原画(セカンド)担当。

1958
(昭和33)
10月、「白蛇伝」完成、公開されて好評を博す。 東映は続いて長編第2作「少年猿飛佐助(59年)」に入り、この頃から正式の原画になった。

1959〜60
(昭和34)
長編第3作「西遊記(60年)」、第4作「安寿と厨子王丸(61年)」などの原画を担当。

1961
(昭和36)
仕上げで彩色をやっていた本橋文枝と縁があって結婚。8歳年下。長編第5作「アラビアンナイト シンドバッドの冒険(62年)」の原画を担当。
6月、東映動画労働組合創立に参加。東映で労働争議が起こり、紛糾が続く。

1962
(昭和37)
長編第6作「わんぱく王子の大蛇退治(63年)」の原画を担当。
この頃FIAT500購入

1965
(昭和38)
この前後、大塚、高畑勲、宮崎駿は組合役員に選出されて多忙な日々をおくることを余儀なくされた。長編「ガリバーの宇宙旅行(65年)」の原画を担当。長編第10作「太陽の王子 ホルスの大冒険」の作画監督。68年の完成まで、高畑勲、宮崎駿、小田部羊一と一緒に仕事をする。

1968
(昭和43)
7月21日、「太陽の王子 ホルスの大冒険」公開。これまでの東映動画作品で最低の興行成績。スタッフの一部が降格処分に。7月頃から、東京デザインカレッジ(東京・新橋)アニメーション科の講師を務めるが、半年ほどで同校は閉校となる。
9月20日、Aプロダクションでパイロットフィルム「ルパン三世」の企画会議に参加。
12月6日、「長靴をはいた猫(69年)」の原画を最後に東映動画を退社し、Aプロダクション(後のシンエイ動画)に移籍。「ルパン三世」パイロット版の原画を担当。演出は大隅正秋。

1969
(昭和44)
5月13日、「ルパン三世」パイロット版が完成したが、東宝が買いしぶり企画は頓挫。
三菱改MBジープを入手

テレビシリーズ「ムーミン」の作画監督を担当。(69年10月5日〜70年3月27日放映分)

1970
(昭和45)
9月、模型雑誌ホビージャパン創刊号から軍用トラック模型の記事を連載。

1971
(昭和46)
8月、模型専門誌「ホビージャパン」誌(ホビージャパン刊)に「Jeep Jeep Jeep」連載開始。(71年9月号〜72年9月号)
10月24日、テレビシリーズ「ルパン三世」放映開始。視聴率は6〜9%と低迷、途中で演出が交代。23本で打ち切られた。(72年3月26日放映終了)シリーズ中盤以降のコンテは、実はその前に東映をやめてAプロに来ていた宮崎、高畑の合作だった。

1972
(昭和47)
11月、「ホビージャパン」誌に「これからが出番!ミリタリー・ヴィークルの魅力」連載開始。(72年12月号〜73年8月号)
12月17日、再び高畑、宮崎、小田部と組んだ小品「パンダコパンダ」公開。小田部と共同で作画監督を担当。

1973
(昭和48)
3月17日、第二作「パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻」公開。小田部と共同で作画監督を担当。3月頃よりアニメーターを一時休んで「MAX模型」の製造企画に参加、CMP,ダッジ・シリーズ、ベッドフォードなどを世に出すが74年同社倒産。10月7日放映開始のテレビシリーズ「侍ジャイアンツ」の作画監督を担当。(74年9月29日まで放映)
この頃FIAT850Sに代替以後シトロエンGS

1974
(昭和49)
3月、「タミヤニュース」(タミヤ模型刊)に「JEEP COMBAT CUSTOM」を連載(74年3月号〜7月号)



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